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Jose

2006年08月19日

僕が客室乗務員だったときの話 【第2章全文】スチュワードになる前の俺


第2章全文

スチュワードになる前の俺

かの有名なインド独立の父、ガンジーの自伝の冒頭には、興味深い記述がある。 ガンジーが自伝を書くと決めた時、彼の友人は「自伝を書くなんて、西洋人か『西洋かぶれの東洋人』がやる事だ」と止めることを勧めたという。

結果的にガンジーは自伝を書いたわけだが、俺は彼の友人の言葉を重く受け止め、自分の経歴を書くつもりはなかった。 したがって、当初は航空会社の入社試験や訓練等々の内情のみに絞って書くつもりだった。

しかし、俺という人間が全く何者かも判らないまま内情を書いてもあまり説得力がない。 俺自身の略歴も多少は書いた方が良いだろう、と最終的に判断した。

幼少時代
俺は熊本で生まれた。 育った地域は、熊本でも「ヤクザ」の人口密度が高い所として知られ、俺の行った中学校は今でも「不良の多い学校」として熊本では有名だ。

地域の雰囲気とは対照的に、幼少時の俺は気が弱く、体力も腕力もなく、オツムの方もちょっと弱い子供だった。 ランドセルを忘れたり、教師から親への手紙を紛失するのは当たり前で、先生にチョット叱られるとすぐに授業中でも泣いたり、同級生に上履きや文房具を隠されたりした。

7・8歳位まではロクに平仮名も読めず、数字も数えられず、階段も上がれなかった。 両手をついて階段を上がっていたらしい。 担任の教師は俺のことを「知能障害児」と考え、隣の小学校の「なかよし学級」(主に知的障害を抱える児童の学級)に編入するように、俺の親に勧めたらしい。

俺の親父はスポーツ万能、勉強万能、生徒会長、大学では奨学生、社会人になってからは宅建・行政書士という「優等生」だったらしいから、「長男が知恵遅れ」なんていうのは納得いかない。 毎日のように、嫌がる俺を近くの歩道橋に連れて行き、階段の上り下りを練習させ、メシの時間も算数の暗算ばかりさせられた。 答えられないとすぐ殴られた。 

どうも優等生に「教え上手」はいないようだ。 理由は簡単、優等生は劣等生を理解できないからだ。 親父は昔「数学の教師になれる」と言っていたが、もしなっていたら「問題教師」になって、3面を飾っていただろう。 ただ、親父のスパルタ教育が効を成したのかは判らないが、成績もほんの多少は伸びたり、運動もほんの多少は出来るようになった。

中学校、そしてアメリカへ
中学でも親父は成績にこだわり、試験が終わるや否や、採点間もない教員の所に俺の成績を聞きに行かせる始末だった。 担任教諭も呆れて、俺の両親に「成績に関しては、ご両親ももっとリラックスされてはどうですか?!」と告げた。 以来、親父の態度は多少軟化したが、代わりにお袋が「教育ママ」になり、親父以上に口うるさく言うようになった。

俺の中学時代は日本は高度成長期からバブル期に入った頃。 1ドルがそれまでは300円から200円台だったのが、現在の100円台に入り、日本が本格的に先進国の仲間入りを始めた頃だ。 海外旅行が爆発的に増え、海外留学も少しずつ増え始めた。

経済が強くなると、輸入が増える。 すると海外から安価な輸入品が出回り始め、それまでは中国産のものは「烏龍茶」や「花火」くらいしかなかったものが、少しずつその他の生活物資にも見られるようになった。 当然デフレも始まり、缶ジュース以外の物価も一般的に安くなってきていたが、百円ショップはほとんどなかった。

また「学歴社会」も今よりも真っ盛りの時期だった。 「受験戦争」なんて言葉もこの頃にできた言葉だろう。 日本中に学習塾ができ始め、「お受験ママ」もこの頃から増え始めた。 俺も他の連中と同じように学習塾に行ったが、正直言って学習塾では何も学ばなかった。

日頃から1人で勉強するのが慣れていたし、学校の授業も余り聞いていなかったので、学習塾に行き始めたからと言って、そこでキチンと勉強するわけでもない。 教員の言っていることが聞き取れないことや理解できないことが多く、結局自宅での独学が主流になるのだ。 家にいる時は、弟との相部屋で勉強ばかりしていた。

学習塾は熊本市の繁華街に位置している。 俺は単に他校の女の子と遊ぶためや夜間徘徊するために学習塾に行っていた。

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俺は中学卒業後、熊本県内の高校に進学。 熊本県内では屈指の進学校で、一年次から各教室に大学カタログが置いてあり、「勉強! 大学進学!」でうるさい高校だった。 休憩時間には生徒達が大学カタログを見て、物知り顔で大学のことを語り合っている。

俺はそんな高校がどうしようもなく嫌いだった。 それに加え、海外に行くことを待ち切れなった俺はこの高校をすぐにでも退学し、アメリカの高校に行くことに決めた。 しかし両親は「お前が私達ば納得させきらんなら、留学はさせんバイ」と耳を貸そうとはしなかった。

留学するために、親を説得できるような理由なんてあるわけがない。 行きたいから行きたい、それだけだ。 俺は勝手に留学書類を取り寄せたり、申込んだりしているうちに、納得もへったくれもないまま、なし崩しの自然承諾となった。 しかし、お袋は出発前日までアメリカ行きに反対し、俺に口論をしかけたりした。

「今日で最後。 一日だけの我慢だ。 黙って聞いておこう。」

翌日、空港で親父は寂しそうに俺と握手した。 しかし正直、その時は口うるさい両親から離れたことでセーセーしていた。 しかし、俺も今や3児の親になり、あの時の両親の気持ちがよく分る。 俺が親父の立場だったら、勝手に留学試験等を申込む息子を許しただろうか…?

アメリカの高校
ホームシックも始めは強く、後にも多少は残った。 しかし何より田舎オレゴンの高校生活は面白く、友人にも恵まれた。 このことがあとで俺の生活に好影響をもたらした。

俺の住んでいた地域は、以前KKKという白人至上団体が以前は幅を利かせていたらしく、人種差別が根強くあった。 俺は差別的な言葉を吐く奴とは授業中でも殴り合いの大喧嘩をし、ダイブ問題になった時もあったが、毅然として立ち向かうことで、「人間」として尊重されることを知った。

勉強と友人、これが俺の高校生活の全てだった。 同居家族を転々とし、物理的・精神的に不安定な俺にとって、勉強は娯楽だった。 深く勉強しているうちに、英語は元々色んな外国語(ギリシャ語・ラテン語・インドの古語など)が混ぜ合わさってできた言語だと知った。 また恋人もでき、彼女の友人が所属する演劇部に入り、ミュージカル等に参加した。

またテコンドー(韓国風の空手のようなもの)を始めた。 運動神経の鈍かった幼少時代を取り戻すかのように、武道に明け暮れ、拳と脚足はいつも腫れ上がり、傷だらけだった。 また殴られても平気な「頑丈」な体を作るため、自分の顔を自分で殴ったり、相手に殴らせたりした。 演劇、武道、恋人、友人…田舎なので遊び場所がなかったのもあるが、これ以外の時間はほとんど勉強に費やした。

高校3年時、またもや「人種差別」が原因で、同居家族の息子と家で殴り合いの喧嘩をし、追い出されてしまった。 校長は俺が前々から喧嘩を頻繁にしていたのを知っていただろう。 しかし原因が「人種差別」である事も知っていたので、それまでは大目に見ていたのだと思う。

しかし今回は事情が違う。 実は同居父は地元の教育委員で、校長とは友人だったのだ。 よって今回に限っては、校長はあまり寛大ではなかった。

「今週末までに『保護者』を見つけないと退学処分にする。」

通告を受けたのは木曜日。 実質1日しか残されていない。 アメリカでは同居する保護者がいないと高校に行けない。 しかし友人達の精力的な協力で、次の日には見つかった。

今考えてみれば、この時期にアメリカ人の「恐ろしさ」を見たような気がする。 「敵」には容赦しない。 徹底的に「敵」を憎み、完膚なきまで叩きのめそうとする。 しかし「仲間」は全力を掛けて助け、守ろうとするのだ。 彼等の「仲間」になれた俺は幸運だった。

同時期にオランダ人留学生がいたが、彼は他のヨーロッパ人留学生とばかり付き合い、アメリカ人を見下していた。 彼も同居家族とトラブルを起こしたが、そのまま高校退学、オランダに帰った。 彼には助けてくれるアメリカの「仲間」がいなかったのだ。

友人達には感謝するも、新しい同居家族とも人種を含む色々な問題があった。 卒業式までに精神的に持つか不安になった時もあったが、なんとか高校を卒業することができた。 卒業式は感動に溢れた。 全ては友人達のお陰だ。 しかし高校3年時には余りに色んな事が起きたため、卒業式の数日後、夏休みを過ごしに帰国した後も、しばらくの間は精神的に不安定になったこともあった。

「もう、アメリカに戻りたくない…」

しかし既にネバダ州ラスベガス市の大学への進学が決まっていた。 親父は俺に「日本にも上智大学てゆうとこにゃ、英語だけで勉強でくっ学部もあっボ。 どぎゃんや?」(日本にも上智大学という所では、英語だけで勉強できる学部もあるぞ。 どうだ?) と勧めたこともあり、俺も真剣に考えた事があった。

アメリカの大学
しかし上智大学、と言えば早稲田や慶応などと並ぶ有名私立。 この「早稲田」「慶応」「上智」の3校は、アメリカでも日本語学習者にとっては憧れの存在だ。 当時の俺から見れば天の上の存在。 あの時、上智に関してもっと調べていれば、試験位は受けたかもしれないが、受ける前から諦め、手っ取り早くアメリカの大学に行くことにした。

ラスベガスの大学では、始めの1年はよく勉強した。 カシノの街ラスベガス。 多くの日本人留学生はよくカシノに行っていたが、週末も遊びにいかず、俺は脇目も振らず勉強した。 授業を除いても、一日10時間くらいはやっただろう。 学部は政治学部で、単語がカナリ難しく感じられた。 それらの専門用語を効率的に覚えるため、「英語の語源はラテン語やギリシャ語」を念頭に置き、高校時代から勉強していたラテン語系列であるスペイン語を駆使して、よく勉強した。

しかし、1年後には根詰めて勉強することに疲れ果て、悪友とカシノに遊びに行くようになり、親父のクレジットカードで大金を使って遊ぶようになった。 もうあの時に戻ることはできないが、返す返すも親父には迷惑を掛けたと思う。

この頃から俺はメキシコの魅力に惹かれていた。 メキシコ人は人懐っこく、陽気だ。 俺が住んでいたアメリカ南西部・南部には、不法滞在者を含めたメキシコ人が多い。 スペイン語が主流である都市も多く、米国なのに英語が通じないのも魅力だった。

クラスメートのメキシコ人と親しくなり、余り興味はなかったがメキシコ人などのラテンアメリカ人のよく集まるカトリック教会に毎週日曜日に行くようになった。 高校のときからスペイン語を習っていたので、スペイン語の練習するにも良い機会だと思った。 最後までキリスト教徒になることはなかったが、教会を通じて魅力的な女性と知り合い、そのうち教会に行かなくなっても、色んな機会を見つけてはラテンアメリカ人の集まる所に足繁く通った。

いつの間にか、大学の友人はメキシコ人、ボリビア人、スペイン人など、スペイン語圏出身者が中心になった。 メシを食うのもタコス屋、酒を飲むにもメキシコ人のバー。 休日となるとラスベガスから自動車で5時間ほどで行けるメキシコの国境の町や米国内のメキシコ人社会で時間を過ごした。 アメリカにいながら、少数のアメリカ人と話す時以外はスペイン語で話す時の方が多くなった。

「もうアメリカにいる意味はないな… 何かとルールが多い先進国『アメリカ』より、メキシコで暮らしたほうが良いな… 発展途上国なら何かチャンスもありそうだし…」

そして友人を通じて親しくなったメキシコ人女性と一緒に居たいがため、ついに大学を休学(事実上の中退)、メキシコに移住した。

メキシコ1
メキシコへの移住など、両親には寝耳に水だ。 しかしガキの頃には特に親父には従順だったので、もう親父のアドバイスなどは聞く気になれなかった。 「日本にいた時に充分話は聞いた」とばかりに、親父には一言も言わずにバスに乗ってメキシコに向かった。

始めにメキシコで暮らした所はドゥランゴ(Durango)という、メキシコ内陸北部の小都市。 アメリカとの国境からバスで25・6時間ほどだったと思う。 メキシコ人の恋人とも、ドゥランゴ到着後、間もなく別れた。 しかし、永住するつもりでメキシコに来たのだから、仕事はしなければならない。

職探しは簡単だった。 当時、メキシコでは英会話学校が竹の子のように「繁殖」していた。 元々アメリカの隣国なので、英語の需要は非常に高い。 また親戚などがアメリカに移住しているメキシコ人は非常に多いし、メキシコ人の大半は「自分もいつかはアメリカに行くことになるかもしれない…」と思っている。

政治的には反米的な人が多い。 しかし背に腹は代えられない。 皆「英語、英語!」だった。 ちょうど、韓国人が日本語を勉強する動機に良く似ている。 (元々ユタ州、コロラド州、ワイオミング州、ニューメキシコ州、テキサス州、アリゾナ州、カリフォルニア州、そして俺が大学に行ったネバダ州などはメキシコの領土だったが、戦争や腐敗した当時のメキシコの政治家のため広大な領土を失った

英会話学校はいくつあっても足りない状況だったので、日本と同様、外国人なら誰でも英会話講師になれた。 俺も英語と日本語を教えることになった。 給料は月1万〜1万5千円ほど。 いくら日本より物価の安いメキシコでも、マトモな暮らしはできない。 英会話教室で働くかたわら、水泳を教えたり、レストランやホテルで仕事をしたり、クラブ(ディスコ)で働いたり、などカネになることは何でもやった。 しかし稼いだカネは酒や遊びに使い果たし、いつも腹が減っていた。 

しかし生きることはできた。 その地域では日本人は珍しいので、好意的に接してくれる人が多かった。 数人の女性はカネや住居、そして喰い物を提供してくれた。 俺を色々助けてくれた女性達に何の恩返しもできなかったのが、今はとても悔やまれる。 しかし正直、その頃の俺は「ジゴロ」気取りで、彼女達を利用することしか頭になかった。

長期の空腹は人の道徳心さえも狂わせる。 何とかデカく稼ぎたかったので、メキシコのマフィアなどに入ろうか、と本気で考えたこともあった。 しかしやはりそこまでワルになることはできない。 マフィアなどというが、映画に出てくるような「カッコイイ」ものではない。

殺人、売春、麻薬、恐喝、窃盗、集団暴力、強姦、詐欺、裏切り…こんなことを生業にするのがマフィアだ。 いくら遠く離れたメキシコでも、俺がこんなプロの犯罪集団に入れば日本に居る家族は悲しむだろうし、考えてみれば俺だってこんなことを出来るわけがない。

「こんな形で俺の人生を終わらせて良いわけがない… 何とかしなくては… 動かなくては…」

こんな生活に嫌気が差し、メキシコを出ることにした。 船でブラジルかアフリカにでも行こうか、と思い、家賃を踏み倒し、職場にも、付き合っていた女性にも一言も告げず、メキシコ南東海岸の港町、べラクルーズ(Veracruz)に向かった。 メキシコに来て2年くらい経った後だった。

メキシコ2
べラクルーズに着いた頃には完全に一文無しになっていた。 俺は完全なホームレスになり、ゴミを漁ったり、日雇いでレストラン等にて仕事をしたりして食い繋いだ。 この街にはホームレスが多く、俺と同じくらいの年のホームレスもいて、恥も外見もなく物乞いをしている。 つまり俺だってこうなりかねない、ということだ。 「俺はここで終わるのか… ウワァァァ!」 恐怖感が最高潮に達し、動けるだけ動いた。

しばらくして警察官と知り合い、彼の家に居候した。 その間、べラクルーズ港に停泊する船に勝手に入っていき、一緒に連れて行ってくれるように頼んだりしたが、全部断られた。 船の多くはドイツやアメリカの船だったが、乗組員の多くはフィリピン人だった。

べラクルースは港町。 港町の人間の気性は内陸部ドゥランゴより荒く、ノリも軽いようにみえた。 メキシコ全体がノリが軽い国だが、ここべラクールスは輪を掛けて軽いように見える。 幾分は落ち着いた雰囲気があったドゥランゴが懐かしく思えた。 食べ物も同じ国内なのに似ても似つかない。 スペイン語の訛りもダイブ違う。 聴く音楽も全然違う。 まるで別の国だった。 何よりドゥランゴと違い、ここはほとんど熱帯とも言える場所で、「冬」だというのにコンクリートの上で寝てても寒くなかった。

その後、ここでも知り合った女性の所に転がり込んだ。 彼女には一人の赤ん坊がいて、一生懸命レストランで働いていた。  彼女の家もカナリ貧しかったが、いい加減な俺を献身的に助けてくれて、暖かい料理を作り、小遣いをくれたりした。 彼女の所に居候しながら英会話学校で仕事を見つけた。 しかし、やはりメキシコに居ても生活が良くなるようにはとても思えず、ついには日本に帰ることにした。 またもや彼女には一言も言わず、カバン一つを持って消えた。

「Voy a salir adelante con mi hija!」(私は娘と一緒に前に進んで行くの!)というのが彼女の口癖だった。 我慢強く、真面目で、人間的にも尊敬できる女性だった。 余りに貧しいので彼女の叔母は「体でも売ったら?」なんて告げたこともあるという。

実際、残念ながらメキシコに限らず世界中の発展途上国では、自分の身内を売春宿に売り飛ばすのは全く珍しくない。 しかし彼女は「子供にみっともない姿を見せるわけには行かない」と給料が安くてもレストランで勤め、いつか自分がレストランの経営者になるという計画を俺に熱心に語っていた。 こんな素晴らしい女性をないがしろにした俺は本当に最低だったと思う。

鉄道で首都メキシコシティーに行き、そこでも女性の家を転々とし、そこでお袋や親戚の力を借りて、ロサンゼルス経由成田行きのチケットを手配した。


「あぁ… デカいこと考えて、デカいこと言ってメキシコに移住したけど、結局親の助けを借りての帰国か… あぁぁ… カッコ悪い… 俺が日本人だからこんな『逃げ』の手が使えるのだろう… もし俺がメキシコ人ならここでホームレスとして『沈没』していたかもしれない。 俺は根性無しだな… でも、いつかこういった経験が… チクショウ…」


ロスアンゼルスについた頃には手元に日本円で3千円位しかなかった。 滞在は3日。 アメリカの物価は日本と変わらないので、3千円で3日暮らすのは無理だ。 日雇いの仕事を探したが、たった3日間、という都合の良い仕事を簡単に見つけられるわけもない。 面倒なので巡回中の警察官に3日間だけ留置所に入れてくれるように頼んだが、笑って断られた。

運良く一日だけダウンタウンLA(ロサンジェルス)のメキシコ料理のレストランでウェイターをやらせて貰った。 残り2日はビスケットだけを食べて空港で寝泊りし、東京行きの飛行機に乗った。 23歳になる前のことだった。





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